こんにちは
ひばりです
昨日、一昨日と
姉様やお客様に
【君は真面目なんだ】
と
言葉を貰うたびに
「私は"馬鹿正直"なだけなんです」と
返して
天邪鬼になったりしていたんですが
なんで
この言葉を掛けられる頻度が
増えたのかなぁ?と
ふと考えたんです。
そうして
導き出した答えが
この言葉のおかげで
私の心に
すっと響いて
渦巻いていた澱んだモノを
綺麗に払拭して貰えていることに
気付いたんです。
私は数年前に
【考え過ぎなんだよ】と
"冷たい言葉"を
何度も投げかけられて
どこか、
苦しい思いを
抱えながら生きたんですよね。
私にとっては
【考える事でしか】
"生き甲斐を感じられなかった"のと
これを失うことは
死と同義だったので
"私の事を考えているのなら"
そんな言葉を
投げかけたりしないだろう。
その人の優しさは
結果的に見せ掛け(=偽物)だったのだと
気付けたんです。
そんな"傷"を抱えているので
より一層、
人の言葉には敏感だから
タチが悪い。
その事に関しては
重々承知しているんです。
私も、
気をつけてはいるんですが
明確な"悪意と捉えるモノ"が
自分や他者に向けられる側面を
目撃したら
速攻、目を鋭くさせて
援護射撃の準備を整えてから
【言葉の弾丸】を放ちます。
私は"言霊(ことだま)を
(古来より言葉には魂が込められており
良いことも悪いことも巡り巡って
自分に返ってくると考えられております)
信じております。
というよりも
【言葉の力】が私には
本当に"強い"と明言するくらいに
説得力のある事を言う場面が
過去に
ちょくちょく合ったんですよね。
友達の人生を左右させてしまう事が
多かったんです。
要は私のことを信用し
そして、
信頼されていたからこそ
なんですけど…。
結果的に
私の大事な友達の人生に対し
その先の事を
碌に考えず
言葉を放ってしまった事が
後々の自分の
人生に大きく影響を
及ぼしてしまう事に
改めて考えさせられてしまったんです。
言葉を放つ事が
時々、恐ろしく思ったりします。
それでも、人間が言葉を使って
対話をするのも
何か意味があるのだと
希望や不安を
抱かせたり、
短い人生を生きていく上で
飽きが来なかったりと
それはそれで面白いんですよね。
日本語も英語も
中国語も韓国語も
フランス語もイタリア語もドイツ語も
スペイン語もエジプト語も
ありとあらゆる言語が
ある事により
その人その人に贈る言葉の数が
豊富なことって
どれだけ恵まれているのか。
愛の言葉を伝えるのも
感謝の言葉を伝えるのも
【たくさん存在してみんな良い。】
人と人がお喋り出来る
こういった"お仕事も"
本当に大切なんだと
思っているからこそ、
日本語をもっと学びたいですし
身近な人たちに
私の言葉で
心が少しでも晴れやかになってくれるなら
沢山、おしゃべりしたい。
私を"真面目"と
言葉を贈ってくださった
姉様やお客様の優しさのお陰で
【心が潤った】事は
事実だからこそ
感謝を贈り還したい。
あなた方は
「常識」だけでなく
【良識】も兼ね備えた
立派な大人です。
"良識とは何か?"
意味は
『物事を深く見通す能力が優れていること。
それに伴う、より優れた判断力を表すこと』
数々の苦労を経ても尚、
彼女、彼らは
繊細な心を持ち
劣等感を抱きながらも
それを言い訳にせずに
学ぶことや知識を得る事
そして、前に進むための
力として
発揮している姿に
私は
"感銘を受けました"。
【頭がいい】と
時に寂しさが訪れると
思っております。
誰かに共感してほしい
分かってほしいという
感情は
"誰しも持ち合わせております"
だからこそ、
日本人は優秀なんだと思います。
仁義や忠義、義理や人情の心が
どの国よりも
高く優秀なんです。
でも、
その"心"すら中々
表立って発揮する事が
出来なくなっていますよね…。
私はそれが寂しくて仕方がないです。
だって、
みんなが"優秀なのに"
それすらも
悪意のある人間達に
都合のいいように
利用されて
悔しくて仕方がないです。
なんで?
どうして?
薄っぺらい笑顔で
相手に"嘘を押し付けないといけないの"?
私は馬鹿正直です。
面白い事にはとことん笑い、
その人の話に耳を傾けて
その人が醸し出す面白さは
どこに備わっているのかを
探すのが大好きです。
この日記を読んだ人たちは
どうか、相手を
観察してみて欲しい。
言葉と行動は一致しているのか?
嘘偽りを感じ取れるのか?
物事を深く考えた上で
言葉を発しているのか?を
どうか、
観察してみて欲しい。
特に、女の子は
【洞察力や観察力】が
人一倍強いと自負している。
その力が
後の未来に
"必要不可欠"だから
どうか、宝の持ち腐れにせずに
日々、強化する為に
明日を生きて欲しいです。
では、また